迷子になった決断
電車の中で、向かいに座る男性がマスクを手に持ったままぼーっとしていた。
耳にかけるでもなく、カバンにしまうでもない。ただ左腕にマスクのゴムを通し、どこにも属さない「中途半端状態」を維持していた。
つけるなら、つける。外すなら、しまう。
出口は2つしかないはずなのに、彼はどちらの決断もしていないように見える。
外したという行為以上に、その「迷子になった決断」が作り出す、まるで出口のない迷路を一人で彷徨っているかのような、しんとした停滞感に違和感を覚えた。
未完のままの善意
この「決断の迷子」は、なにも電車の中に限った話ではない。先日、ある知人から聞いた話が印象的だった。
その人の夫は、ゴミ出しを率先してやってくれる。それは間違いなく善意だし、家族としても助かっているはずだ。
けれど、ゴミを捨てて戻ってきた後のキッチンには、新しい袋がセットされていない「空っぽの箱」がポツンと取り残されているという。
彼は「ゴミを捨てる」というタスクの主要な部分はやり遂げた。
でも、そこに「次の袋をセットする」という工程は含まれていない。彼にとってのゴールは、集積所にゴミを置いた瞬間に設定されており、その先は完全にノーマークな領域になっているのだ。
本人は決して、最後の一手をサボっているわけではない。ただ、「袋をセットするまでがゴミ出し」という習慣のパッケージ化がなされていないだけ。この、ゴールの直前で思考が途切れてしまう「習慣の未完成」が、後に続く者に小さな負担を強いている。
「決めないこと」で支払う代償
こうした些細な「未完の習慣」の積み重ねは、やがて本人の自覚がないまま、生き方の癖として定着していく。
現代には、この「出口なき優柔不断」の心地よさに、知らず知らずのうちに安住している人が溢れていないだろうか。
- 返信を打たずに既読のまま放置するLINE
- 辞める勇気も、のめり込む熱量もないまま続けている仕事
- 自分の意思を示さず、多数派の空気が固まるまで様子を見る沈黙
これらはすべて、ある種の「迷子」の状態をあえて維持しているようにも見える。
なぜなら、どちらかに振り切ることは、自分の立ち位置を明確に、その先の結果という「責任」を引き受けることだからだ。
出口を見つけないまま立ち止まっていれば、誰からも責められないし、間違えることもない。しかしそれは同時に、どこへも辿り着けないという代償を払っていることと同義だ。
彼らは、決断に伴う「責任」という名のコストを支払うことから、無意識に逃避し続けているのかもしれない。
「完結」という名の出口
マスクをカバンにしまう。ゴミ箱に袋をかける。
そんな些細な「出口」を自分で設計するのに、特別な才能なんていらない。
「ゴミ出しは袋をセットするまでがセット」と、バラバラだった工程を一つにパッケージ化してしまえば、そこに従うだけで「決断のコスト」は消えていく。
けれど、この小さな「完結」を積み重ねることの価値は、単なる家事の効率化にとどまらない。
日常のわずかな隙間を自分の意思で埋めていく習慣こそが、いざという時に自分を迷路の出口へと導く、柔軟な決断力を養ってくれるのだ。
手の中で所在なげに揺れるマスクを見つめながら、私は思った。
「決めないこと」は、一見すると波風の立たない楽な選択に見える。
けれど、自ら出口を選び取らない限り、目的地のない旅を、永遠に繰り返すことになるのだ。


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