スマホを見ながらベビーカーを押す危うさ。日常のマンネリが麻痺させる「命の重み」

荒涼としたアスファルトの道路に置かれたレトロな天秤秤。左側の上がった皿には小さなテディベアが、右側の下がった皿には画面の点灯したスマートフォンが乗っている、ダークで映画のような質感の写真。 人間観察

ある日の昼下がり、平凡な日常の風景のなかで、その背中は私の30メートルほど先を歩いていた。ベビーカーを押す母親の姿だ。

行く手の信号はまだ青を示している。だが、じっと見つめていればわかる。おそらくあと5秒もすれば、点滅が始まるはずだ。しかし、母親の視線は執拗に下を向いていた。左手一本でベビーカーのハンドルを握り、右手には見慣れた四角い端末を握りしめている。ながらスマホ、というやつだ。

点滅を察知したのか、彼女は駆け足にこそならないものの、ほんのわずかに歩調を早めた。その間もスマホをポケットに収める気配はない。ベビーカーの硬いプラスチックの手すりと、自分の手のひらの隙間に、滑り込ませるようにして挟み込んだままだ。 結局、信号は点滅に変わった。諦めたようにスピードを落とした彼女は、すぐさま手元の画面へと視線を戻す。そのわずかな歩みのあいだにも、左側からは見通しの悪い脇道が一本、ぬっと顔をのぞかせていた。片手で我が子を揺らしながら画面を追うその一連の動作に、強い違和感を覚えた。

愛する我が子とスマホの画面を「同列」に並べる天秤の狂い

勘違いしてはならないのは、彼女が子供を愛していないわけではない、ということだ。おそらく、家の中での何気ない日常の「手癖」が、そのまま露呈してしまっているに過ぎない。

四六時中、片時もスマホを離さない生活。その地続きの慣れが、一歩外へ出たからといって急にリセットされるわけもないのだろう。彼女の脳内ではもはや、「携帯の画面を見る」という受動的な欲求と、「愛する我が子を運ぶ」という絶対的な責任が、全く同じ重要度のトレイに並べられているのかもしれない。その天秤の狂いこそが、あの茹だるようなアスファルトの上で私が目撃した、静かな異常さだった。

空き缶ひとつで見落とされる、ベビーカーのリアルなリスク

法改正によって、自転車のながらスマホへの風当たりが急激に強くなった昨今だ。自分の操作ひとつで、前触れもなく我が子の命が「どうにでもなってしまう」という自覚は、あの背中にはないのだろうか。脇道から不意に飛び出してくる自転車の影を、彼女は一度でも想像したことがあるのだろうか。

あるいは、画面に吸い付けられた視線のせいで、わずか1メートル先に転がっているアルミ缶の空き缶を見落とし、その上を通過する。ただそれだけのノイズで、ベビーカーの小さな車輪はあっけなくロックされ、車体は傾く。本来起こるはずのなかった最悪の事態は、そんな日常の綻びから唐突に顔を出すものだ。

日常のマンネリに支配されているのは、あの母親だけではない

この記事を書いていて思ったのは、これはあの母親だけの話ではなく、私自身の話でもある、ということだ。

慣れ親しんだ日常の中で、自分もまた「このくらい大丈夫だろう」と、何か決定的なリスクを見落としてはいないだろうか。通知が鳴れば、歩いていようが誰かと話していようが、無意識にスマホに手を伸ばす。

能動的に操作しているつもりの機械に、いつの間にか受動的に支配されている。その狂いにすら気づけないほど、私たちの脳は日常のルーティンに麻痺している。せめて、自分以外、あるいは自分以上の重みを背負っているときくらいは、その麻痺からの脱却を試みなければならない

アスファルトに転がる空き缶の冷たさを、他人事として見過ごしている場合ではないのだ。

あわせて読みたい:公共の場の心理学シリーズ

コメント

タイトルとURLをコピーしました