エスカレーターで歩く人はなぜ怒る?真ん中に立つ人の心理と「歩行禁止」の綺麗ごと

エスカレーターの真ん中に立ち黄色いキャリーバッグで道を塞ぐ人と、後ろから汗をかいて駆け上がってくるスーツ姿の男性を描いたアニメイラスト。 人間観察

駅の改札を抜けてエスカレーターに一歩を踏み出した瞬間、目の前で流れがピタリと止まる。

視線の先にいるのは、エスカレーターの真ん中にドンッと立ち、右手で大きめの荷物を抱えた一人の背中だ。左右どちらかに寄る気配は微塵もない。その数秒後、私の後ろから駆け足でエスカレーターを上がってきた男が、その背中の2段手前で急ブレーキをかけた。「チッ」という舌打ちが空間に響き渡り、男の靴底が苛立たしげにステップを叩く。

「歩きたいのなら、大人しく階段を使えばいいのに」と、私はいつも思う。自分の足で登る労力は惜しみたい、けれど時間だけは人よりも得たい。エスカレーターをわざわざ走って上がっていく後ろ姿を見ていると、人間の剥き出しの強欲さが垣間見え、少し白けた気持ちになる。

駅のホームには、毎日のように「歩かず、立ち止まってご利用ください」というアナウンスが響いている。あれだけ耳にタコができるほど注意喚起されているのだから、社会的な総意としてはおそらく「立ち止まること」が正解なのだろう。

それなのに、エスカレーターでは、お互いに「自分が正しい」という人間たちの、酷く狭量で生々しいエゴのぶつかり合いが日常的に上演されている。

エスカレーターを塞ぐ心理と、歩く人がネットで探す「言い訳」

そもそも、なぜわざわざ真ん中に立つのか。左右どちらかに少し寄れば、後ろから迫り来るイライラした気配をやり過ごせるはずなのに、頑なに中央のポジションを譲らない。

彼らの心理の根底にあるのは、「立ち止まれと言われているのだから、私がどこに立とうが勝手だろう」という正義感だ。だが、それはあくまで建前で、その本質は高尚な守法精神ではない。もっと泥臭い「自分の心地よいスペースを、他人の都合で侵されたくない」というテリトリーの主張だ。

右手に大きな荷物を持ち、真ん中を占拠する。それは、背後から迫る「急いでいる人」の焦燥感や圧迫感に対するある種防波堤の役割を果たしている。後ろを振り返ることもなく、ただ前だけを向いて静止する背中からは、「私の領域に踏み込んでくるな」という圧が透けて見える。

「歩行禁止」に納得がいかず、ネットに答え合わせを求める人たち

一方で、後ろから突っかかっていく「歩く人」もまた、必死だ。スマホの検索窓に「エスカレーター 歩く」「エスカレーター 歩行禁止 納得いかない」といった言葉を打ち込んでいるのは、おそらく彼らだろう。彼らの目的は、綺麗なマナー論を学ぶことではない。「エスカレーターで歩くことの何が悪いんだ」「急いでいる人の邪魔をする奴の方がマナー違反だ」という、自分の苛立ちを正当化してくれる都合のいい裏付け(証拠)を必死に集めに来ているのだ。

どちらの言い分にも、自分なりの理屈はある。しかし、どちらの行動も、結局は「自分が一番快適でありたい」というエゴの領域を一歩も出ていない。

「思わされている」同調圧力をぶち破るには

そもそも、私たちがエスカレーターの片側を綺麗にあけて乗っているのはなぜだろうか。それは自分の意志ではなく、前の人たちがそうしているから、自分もあけなければいけないと「思わされている」状態にすぎない。ただの同調圧力だ。

この思考停止の空気を打破するためには、誰かが意識的に、あいている側のステップに自ら乗って立ちはだかる必要がある。しかし、今の現代人を見渡してみても、「両側を均等に使って、みんなで立ち止まって乗りましょう」という意識付けはあまりにも希薄だ。歩きたい人間と、止まりたい人間の間にある溝は、個人の譲り合い精神なんかで埋まるほど浅くはない。

だからこそ、これは個人のマナーや思いやりに丸投げするフェーズはもう終わっているのではないだろうか。

鉄道会社や行政が、もっとトップダウンで「絶対に歩くのはやめよう」と、強制力を持った強い意識づけをしていかなければ、この不毛な小競り合いはいつまでも終わらない。綺麗ごとで煙に巻くのではなく、システムとして仕組みを変えるべきだ。

誰の目も気にせず、頑固に自分のテリトリーを守る人間と、時間欲しさにステップを駆け上がる人間。あのエスカレーターでのギスギスした空気感に巻き込まれるたび、自分の中にある他者への不寛容さに気づかされて、嫌な後味が残る。

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