揺れる褐色の液体
冬の冷え込みが厳しい朝だった。駅へ向かう道すがら、一台の自転車が私を追い越して行く。
ふと見ると、その人の右手にはコンビニのホットコーヒーが握られていた。
地面のコンクリートの段差で自転車が揺れるたびに、蓋の飲み口から熱い液体が今にも溢れ出しそうに波打っているのが、後ろを歩く私には容易に想像できた。
「こぼれるかも」「危ないかも」、そんな私の思いなど彼には全く届く気配もない。何食わぬ顔でペダルを漕ぎ続けるその背中に、しんとした危なさが漂う。
大丈夫という根拠なき自信
彼が抱いているであろう「大丈夫やろ」という感覚。それは、単なるバランス感覚への自信ではない。そこには、自分だけは例外であり、自分だけは失敗しないという、無意識の自己特別視が潜んでいる。
もし、液体が溢れれば、自分の服が汚れるだけでは済まない。後続の歩行者に火傷を負わせるかもしれないし、咄嗟のハンドル操作ミスで接触事故を起こすかもしれない。
その「かもしれない」という想像力が、コーヒーの湯気とともに冬の空気に溶け、見えなくなってしまっている。自分を、そして周囲の人々を軽く扱っていると言わざるを得ない光景だった。
制御が招くリスクの盲点
なぜ、これほど明らかなリスクを無視できるのか。
心理学者のポール・スロヴィックは、人間がリスクを感じる因子として「恐ろしさ」や「未知性」を挙げている。興味深いのは、人は対象を自分が制御できていると感じた瞬間に、これらの因子が急激に小さくなるという点だ。
例えば、車の運転手は、歩行者よりも「車は安全な乗り物だ」と誤認しやすい。自分がハンドルを握り意のままに動かせているという感覚が、本来そこにあるはずの「鉄の塊を操る恐怖」を麻痺させてしまうのだ。自転車の彼もまた、同じ罠に陥っている。何度も通った道、何度も繰り返した片手運転。その慣れが生む制御感が、リスクを意識の外へ追いやってしまう。本当の意味でリスクを正しく捉えているのは、当事者ではなく、横で危ないと感じている第三者の視点なのだ。
想像力という名のハンドル
「自分は知っている」「自分はコントロールできている」。そんな傲慢さが、私たちの想像力を狭めていく。しかし、この脳のバグは自覚するだけではなかなか解けない。
だからこそ、私たちは外発的な情報を意識的に自分の中へ落とし込んでおく必要がある。心理学の知見や他者の冷ややかな視線を、脳の片隅にリスク管理の外部メモリとして保存しておくのだ。
「今の自分は、『自分だけは大丈夫』という根拠のない思い込みにハマっていないか?」
そう自問する回路を一つ持っておくだけで、麻痺した想像力は再び動き出す。
片手のコーヒーを手放し、両手でハンドルを握り直すとき、私たちはようやく自分だけの狭い世界から抜け出せる。誰かの日常を壊さないために。そして、自分自身の価値を貶めないために。
私たちは自分の中の「制御の過信」を疑い、情報を味方につけ、常に最悪の事態を想像する優しさを持つべきではないだろうか。


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