ある休日のカフェでの話。あいにくの雨ということもあり、「今日はカフェで読書でもして有意義な休日を過ごそう」と意気込み、どんよりとした雨にも負けない晴れやかな気持ちで家を出た。
カフェに着くと、人はまばらで空席も目立った。私にとっては落ち着いて時間を過ごせると高揚感に溢れていた。左右に誰もいない席に座り、読書を始めた。
湧水のような愚痴と、携帯片手の生返事
20分程経ったところで、1組のカップルが来店してきた。私の右側に座り、注文をしに行く。デートの途中だったようだが、一息つこうといったところか。
外を歩いている時は、ザーザーと雨のノイズが入りゆっくりと話が出来ていなかったようで、席に着くなり、彼女の仕事の大愚痴大会が開催された。彼氏は最初の方は「うんうん、大変だったね」「全く同じシチュエーション体験したことある、気持ちめっちゃわかるよ」と寄り添っていた。
しかし、愚痴が一向に終わる気配もない。まるで湧水のように無限に溢れ出てくるようだった。 最初は同感して波長を合わせていた彼にも、だんだんと影が見え隠れする。目を見て聞いていた最初と比べれば、携帯を片手にただ「ふんふん」とうなづくだけに変化していった。
さらに時間が経つと、彼は「これはこう対処すればいい、それは自分の仕事じゃないから断ればいい」などと、具体的な解決策を講じるようになってきたのだ。それに対して、彼女は「問題を解決したいんじゃないの、ただ聞いて欲しいの」と強めの口調で応戦した。
狩猟と採集、脳の言い訳
ここで思考を巡らせてみる。古来より、男性と女性の脳の発達の違いゆえに、得意なこと・不得意なことは明確にあるとされる。男性は、外へ狩りに出て獲物を仕留め、食材として持ち帰る。その際、動物の生活拠点、行動ルート、適正な武器の選定など、論理的に認識し決断することでハントの成功確率を上げてきた。つまり、物事を論理的に考えることに長けている。
対して女性は、男性が狩りに出ている間、コミュニティ内での家事や育児、木の実の採取などをしてきた。「ここの実はもう少ないから違うところにいこう」「私はこれを持っててそれが欲しいから交換しよう」といった、近隣との情報の交換によって生活している。つまり、人との対話力、共感やコミュニケーション能力に長けていると言えるだろう。
その相反する長所を持った人間が現代のカフェで会話をしようものなら、お互いが不満を持つことも、システム的には自然であると断言できる。
本来の役割を果たさない手元の文庫本
では対策としてどうするべきなのか。
正直なところ、私には分からない。男がどれだけ共感を学び、女がどれだけ論理を理解したところで、私たちは結局、他人の割り切れない感情を自分の都合のいい枠組みで処理したいだけの、利己的な生き物かもしれないからだ。隣の男が「解決策」というタスク処理で目の前の泥沼を片付けようとしたように、私もまた、彼らの不条理を「脳科学の一般論」というテンプレートにハメ込んで、冷徹に分析していたに過ぎない。その傲慢さの根っこは、何一つ変わらないのだ。
有意義な休日を過ごそうと開いていたはずの文庫本は、いつの間にか、隣の修羅場を覗き見するためのただの目隠しに成り下がっていた。
結局、読書はほとんど進まなかった。なのに、その日どんよりとした雨の中で一番鮮明に脳裏に焼き付いたのは、高尚な本の内容などではなく、隣の席の二人が繰り広げていた、あの泥臭く不毛な会話の残響だった。
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