「いただきます」を言う人と言わない人
食事の時間帯、私は「いただきます」を言う人と言わない人で、意外と大きな違いがあるのではないかと思った。
ある飲食店で食事をしていた時のことだ。
右隣には若いカップルが座っていた。料理が運ばれてくると、二人は自然と手を合わせ、「いただきます」と声をそろえて食事を始める。
一方、左隣には年配の夫婦が座っていた。奥様は手を合わせてから箸を持ったものの、旦那様は手を合わせることも、「いただきます」と口にすることもなく、料理が運ばれてくると同時に食べ始めた。
もちろん、この二組だけで世代の違いを語ることはできない。ただ、同じ空間で対照的な光景を目にしたことで、「いただきます」という何気ない一言には、その人の育った環境や習慣が表れているのではないかと思った。
実際に調べてみると、毎食「いただきます」「ごちそうさま」を言う人はおよそ半数で、残りの半数は「誰かと一緒なら言う」「一人の時は言わない」など、人によって習慣が分かれているようだ。
では、なぜ「いただきます」を言わない人がいるのだろうか。
「いただきます」を言わない理由
最も考えやすい理由は、家庭環境だろう。
ひと昔前と比べると、家庭の形は大きく変化した。共働き世帯が増え、家族全員で食卓を囲む機会は減っている。一人で食事をする場面や、親の帰宅を待たずに子どもだけで夕食を済ませる家庭も珍しくない。
その結果、食事が「家族との時間」ではなく、「空腹を満たす時間」へと変化している家庭もあるのかもしれない。
また、スマートフォンや動画配信サービスの普及によって、食事と娯楽の境界も曖昧になった。動画を見ながら食べ始めることが当たり前になれば、「いただきます」と区切りをつける習慣が薄れていくことも考えられる。
習慣も大きな要因だ。独身生活が長い人や、夫婦でも生活リズムが異なり、別々に食事をすることが多い家庭では、「いただきます」と口に出す機会そのものが少なくなる。
毎日言わない生活を続けていると、外食でも「わざわざ声に出すほどのことではない」と無意識に判断してしまうのかもしれない。
さらに、感謝の対象が分からないと考える人もいる。「目の前に感謝する相手がいるわけではない」「形式だけなら意味がない」と考え、「いただきます」を口にしない人も一定数いるだろう。
カップルで価値観が違うと何が起こるのか
ここからが本題だ。例えば、こんなやり取りがあったとする。

いただきます言わないの?

え、家では言わへんかった。

そうなんや。
この時点では喧嘩ではない。
彼女は責めるつもりで言ったわけではないし、彼氏にも悪気はない。
しかし、彼女は心のどこかで「礼儀がない人なのかな」と感じるかもしれない。一方の彼氏は、「そんなことで気になるの?」と思うかもしれない。
二人とも間違ってはいない。ただ、それぞれが育ってきた家庭の「普通」を、そのまま持ってきているだけなのだ。
本当に問題なのは「いただきます」ではない
本質は、「いただきます」を言うか言わないかではないと私は思う。例えば、

いただきます言おうよ。

そんなの言う意味ある?
ここで会話が終われば、お互いが自分の正しさを主張するだけになってしまう。しかし、

いただきます言おうよ。

家では言わへんかった。

私は小さい頃から毎日言ってきた。
こうした会話になればどうだろうか。
確かに価値観のズレはある。
それでも、それはお互いを知るきっかけになる。
価値観のズレが、そのまま価値観の共有へと変わる瞬間でもある。
人は価値観が違うことよりも、自分の「普通」を否定されたと感じた時に傷つく。
だからこそ大切なのは、相手の普通を「おかしい」と切り捨てることではなく、「そういう家庭で育ったんだね」と受け止める姿勢なのだと思う。
「いただきます」は価値観を共有する時間なのかもしれない
食卓で交わされる「いただきます」は、たった六文字しかない。
しかし、その六文字の背景には、それぞれが育ってきた家庭や習慣、価値観が詰まっている。
「言う人が正しい」「言わない人が悪い」という話ではない。
大切なのは、自分の普通を相手に押し付けることではなく、「なぜその人はそう考えるのか」を知ろうとすることではないだろうか。
食卓は、食事をするだけの場所ではない。
何気ない「いただきます」という一言を通して、お互いの価値観を知り、共有していく場所でもあるのだと思う。
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