透明な壁に向かって加速する人々
どこにでもある、透明なガラスの自動ドア。
その向こう側から、こちらへ向かって歩いてくる人がはっきりと見えている。
普通なら「どちらが先に通るか」という無言の駆け引きや、歩く速度の調整が生まれるはずの場面。
しかし、たまに信じられない光景を目にすることがある。
対抗するこちらの存在を認識しているはずなのに、一切減速をしない人がいるのだ。
譲るという選択肢を脳内から排除し、透明な壁に向かって猪突猛進する。
その勢いたるや、もしドアが開かなければ、そのまま物理的に自動ドアを割って進んでしまうのではないかと思ってしまうほどだ。
彼らの目には「人」が見えていないわけではない。
見えているが、自分の進行を妨げるノイズ(障害物)程度にしか映っていないように見える。
「自動」という言葉への全幅の信頼
なぜ、これほどまでに無防備に突っ込めるのか。
それは現代人にとって、自動ドアが単なる「設備」を超え、一種の【絶対的な約束事】になっているからだ。
「自分の前に立てば、世界が自分を迎え入れるために開く」
この因果関係は、もはや重力や慣性の法則と同じレベルの自然法則として、私たちの脳に深く刷り込まれている。
目の前に立てば開くことを疑わないからこそ、リスク管理のスイッチは完全にオフになり、警戒心というブレーキを捨てて加速できる。
万が一の裏切りに耐えられない
しかし、機械に100%はない。
センサーの汚れ、システム上のタイムラグ、あるいは単純な故障。
自動ドアはごく稀に、しかし確実に私たちを裏切る。
それなのに誰もが「その故障が、今、自分が通る瞬間に起こるはずがない」と信じて疑わない。
結果としてセンサーが反応するわずかコンマ数秒の遅れすら許容できないのだ。
本来なら誤差で済むはずのわずかな不測の事態に直面したとき、人は滑稽なほど無様にガラスに激突しかけ、あるいは剥き出しの苛立ちを見せる。
この苛立ちは、システムへの過信が生んだ傲慢さの裏返しではないのだろうか。
「思い通り」が壊れたときの脆弱さ
この光景は、自動ドアに限った話ではない。
スマホ、AI、インフラ。全て「自分が思い通りに動く」ことが当たり前になりすぎた社会。
私たちは便利さと引き換えに、【たった一瞬でも、思い通りにいかないこと】に対する耐性を失ってはいないだろうか。
自動ドアの前で一瞬立ち止まっただけで顔をしかめる姿は、そのまま「不測の事態に対する余裕のなさ」を露呈しているように見える。
まとめ:心の「遊び」を取り戻す
100%の正解や反応が返ってくることを前提に、脇目も振らずに突っ込むのは危うい。
常に「開かないかもしれない」「相手が先に来るかもしれない」という、
わずかな待ちを持つこと。
余裕とはシステムを完璧に使いこなすことではない。
システムが期待通りに機能しなかった時の自分を、どれだけコントロールできるか。
そのわずかな「遊び」の中にこそ、現代人が忘れかけている知性と品格が宿るのではないだろうか。


コメント