「見えていない」のではなく「見ていない」
ながらスマホで道路の真ん中を歩いている人がいる。 あれは単に「危ない」という以前に、無意識のうちに「自分は周囲に避けられる側の人間だ」と思い込んでいる節がある。
周囲が見えていないのではない。自分が社会という大きな流れの一部であるという感覚が薄く、周りが自分に合わせて流れを作ってくれるのが当然だという、一種の特権意識のようなものを感じるのだ。
(2026年1月12日の観察より)
リスクを他人に委ねる「心理的ギャンブル」
なぜ、彼らはこれほど無防備に歩けるのか。その背景には、心理学で言われる「リスク認知バイアス」が潜んでいるように思う。
「自分が事故に遭うはずがない」という根拠のない確信。あるいは、もし事故が起きたらどれほど後悔するかという「予期後悔」のイメージが不鮮明なのだ。想像力がスマホの画面内に限定され、自分の身に降りかかる最悪の事態を、リアルな痛みとして捉えきれていない。
万が一事故が起きた際、法的な過失割合はどうあれ、本質的には「自ら事故を回避できる工程」を放棄していた事実は変わらない。自分の安全を、見ず知らずの他人のブレーキ操作に委ねるというギャンブルを、なぜこれほど堂々と続けられるのか。
物理的にスマホとの「境界線」をデザインする
この無意識の特権意識から脱し、自分と周囲の安全を守るための解決策は、精神論ではなく「物理的」な環境作りにある。
- 物理的距離を置く:スマホをポケットではなく、あえて取り出しにくい「カバンの奥」へ。
- 通知の遮断:移動中のみ「おやすみモード」を起動させ、情報のノイズを完全にカットする。
ちなみにiPhoneなら、「設定」>「集中モード」から、移動を検知して自動でオンにするスケジュール設定が可能。こうした設定一つの工夫で、私たちのリスク認知は正常な状態へと引き戻される。”テクノロジーへの依存”を、”テクノロジーの設定”で制御する。これこそが、無意識の特権意識に振り回されないための、現代的な自衛手段と言えるだろう。
「見ないようにしよう」と意志の力に頼るのではなく、スマホを触れない仕組みを自らデザインすること。
まとめ:社会という「流れ」の一部として
一歩外に出れば、誰もが交通という大きな流れの一部。自分だけがその外側にいる「特別な存在」だと思った瞬間、客観性は失われ、危険が忍び寄る。
「自分がどう動けば、周りの流れを止めずに済むか」。 そんな些細な客観性を持ち合わせるだけで、防げる不幸は世の中に溢れている。他人に自分の人生のハンドルを握らせない歩き方を、常に意識していたい。


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