土曜の日中、午後の微かな眠気を孕んだ電車内。
主要駅を過ぎて乗客の波が引き、乗車率は3割程度といったところか。座席に空きはないが、立っている人間も数えるほどしかいない。
私はドア付近の混雑を避け、車両の中腹へと足を進めた。そこで視線が止まる。二人掛けの通路側に腰を下ろし、窓側をぽっかりと空席のまま放置している中年男性。座席に浅く腰掛け、スマートフォンは横向きでイヤホンをしている。何かしらのゲームをしながら自分の世界に入りこんでいるように見えた。
その様子を見た私は、「奥に詰めればもう一人座れるだろう」という悪魔が囁き、同時に「次で降りる準備かもしれない」という天使が言い訳を探し始めた。
一駅目到着、ドアが開く。新しく入ってきた乗客が私の隣に来るや否や、一瞬だけ男の横の空席に視線を落とす。しかし、男の私の世界に入ってくるなと言わんばかりのオーラを感じ取り、気まずそうに目を逸らして通り過ぎた。新しく乗ってきた乗客と私は、目を合わせることはなかったが、お互い感じ取っている空気感だけは共有できた間があったことは確かだ。
二駅目到着、やはり男は動かない。三駅、四駅。確信が芽生える。彼は、ただ無意識に、あるいは意図的に、自分の周囲から他者を排除している。
狭い心と、狭い車内
世間一般で言われている心が狭い人間と、無意識に車内を窮屈にさせている人間には、ある種の相関関係があるのではないだろうか。心が狭い、言い換えれば「余裕」を失った人間は、公共の場に物理的な縄張りを作りたがる。それは家庭内に漂う「話しかけるなオーラ」の延長線上にあるのではないだろうか。
公共の場であるはずの座席に、見えない壁を築いて自分を保護する。その不自然な空間の使い方が、周囲の空気を少しずつ重く、狭く変質させていく。
最適解を知っている人間の敗北
結論は分かっている。こういう手合いに出くわした時は、同じ土俵に立たないこと。関わらず、無視し、自分の心を守る。それだけが唯一の正解だ。過去の私もブログにそう書いたし、頭では痛いほど理解しているはずだった。
なのに私は、目的地までの五駅の間、男の一挙手一投足を凝視し、脳内で天使と悪魔を不毛に戦わせ続けていた。関わっていないポーズを装いながらも、私の脳内は完全にその男に占拠されていた。正しい対処法を知りながら、感情のノイズを制御できずにイライラを連れて歩いてしまう。
そんな、理屈通りにいかない自分の未熟さが、ただただみっともなくて、ひどく格好悪い。
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