私は毎日欠かさずにコーヒーを飲む。朝の定食は決まってゆで卵とヨーグルト、はちみつ、そして淹れたてのブラックコーヒーだ。
朝起きて水で顔を洗っても、脳内はまだ半分眠っている。しかし、年中変わらずマグカップからモクモクと立ち上る白い湯気を眺め、熱々のコーヒーを一口含むと、寝起きの体に輪郭が戻ってくる。あの五感に染み込んでいく感覚を、私は愛してやまない。そんな「ブラック一択」の私に、ある日、奇妙なノイズが混ざり込んだ。
120点の好意と、及第点の微糖
職場でパソコンに向かっていると、不意に同僚から声をかけられた。振り返ると、彼の手には茶色の缶コーヒー。「今日も朝早くからお疲れさん」と、いつもより幾分か明るいトーンだ。毎日言葉を交わす仲だが、普段は業務連絡のラリーで終わる。どうやら今日は機嫌が良いらしい。しかし、その茶色のパッケージが視界に入った瞬間、私の心の中で「その色、怪しいな」と直観する。それでも私は、大人の笑みを張り付けてありがたくそれを受け取った。
彼が自席に戻った後、手元の缶を凝視する。案の定、そこには「微糖」の二文字が踊っていた。 嬉しい、という感情に嘘はない。わざわざ自販機で小銭を落としてくれた彼の好意は120点だ。だが、中身は申し訳ないが及第点といったところ。せっかくの気遣いを無駄にはできず、プルタブを引き上げて口に含む。求めていた苦味と同時に、べたついた甘みが舌に絡みつく。100%の純粋な感謝とは少し違う、この「微妙なズレ」を処理するために、私の脳内は余計なエネルギーを消費し始めていた。優しさを受け取るというのは、どうしてこうも疲れるのだろうか。
「親切」に潜む自己満足の牙
ふと、過去の記憶が脳裏をよぎる。駅の改札へ向かう階段で、シルバーカーを引いた老人に「持ちましょうか」と声をかけた時のことだ。老人は満面の笑みで「ありがとう」と言ってくれた。その場は美談として終わったが、あれも一歩間違えれば、ただの「ありがた迷惑」だったのではないか。
私が軽々と持ち上げる裏では、老人は「リハビリの機会」を奪われたかもしれないし、「年寄り扱いされた」とプライドを傷つけられたかもしれない。普通に考えれば手助けするのが正解だが、その「普通」ほど傲慢なものはないだろう。結局、あの時の私は老人のためではなく、「親切をした自分」に酔いたかっただけではないか。そんな自己満足の加害性が、普段は見えないところにいるが、いつでも牙を剥こうと待っている。
ぬるくなった缶コーヒーと大人の嘘
ひとしきり脳内であれやこれやと考え、手元に目をやると、缶コーヒーはすっかり温さを失いかけていた。同僚がどんな気持ちでこれを選んだのかは分からない。ただ、そこに含まれていたであろう日頃の労いや好意を、私は確かに薄々と感じている。
だからこそ、タチが悪い。 笑顔で「ありがとう」と嘘をつき、求めていない甘さを胃に流し込む。差し出す側も、受け取る側も、互いのエゴを優しさというオブラートに包んで騙し合っている。口の中に残る、このまとわりつくようなぬるい甘みは、私のつく大人の嘘の味そのものだ。
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