15時の退屈と、オレンジ色の火種
平日の15時頃の出来事だ。
平日と時間帯の組み合わせもあり、街に出ている人の姿はまばらで、すれ違う人数を数えられるほどに閑散としていた。そこから電車に乗る用事があったため、目的地へ向かうために改札をくぐる。
乗り込んだ車内にも、街と同様の気だるい光景が広がっていた。ガタゴトと規則的に揺れる車輪の音と、低く唸る冷房の風。同じ車両に乗っているのは、1つの長い座席に2人程度だろうか。土日の、あの押しつぶされそうな混雑ぶりを知っている私からすれば、「ラッキー」と心の中で喜ばずにはいられない空間だった。
私は車両の中程まで進み、両角席には先客がいたため、長いシートの真ん中に腰を下ろした。 だが、電車が発車して間も無くすると、車両の端から静寂を破る揉め声が聞こえてきた。
目をやると、オレンジ色の吊り革が下がる優先座席の前で、若干腰の曲がった老人と、ロン毛で帽子を後ろ向きにかぶり、大きなヘッドホンを首からぶら下げた若者二人が対峙している。動かなくても筒抜けになるほどの声のボリュームだったので、嫌でも耳を貸すことになった。
怒っているのは、どうやらご老人のほうだ。言い分を要約すると、
「ここは優先座席だ、お前は向こうの空いている席に座りなさい」
といった内容。対する若者側も、素直に「わかりました」と首を縦に振りたがらない様子で、真っ向から言い返している。
「乗車口から一番近い席が空いてたから座っただけです。他にも席はいくらでも空いてるでしょ。車内が混雑して、本当に席に困っている老人がいたら空けるから、今ここに座っていてもいいのでは」
両者の言い分は、それぞれ一理あるようにも聞こえる。だが、この不毛な押し問答を冷めた目で眺めているうちに、私の脳内では別の持論が展開されていた。
正義を振りかざす快楽
まず、あの老人は、本当の意味で社会のマナーを若者に提唱しようとしているのだろうか。私にはどうしてもそうは思えない。そう考える根拠は2つある。
1つ目は、あまりにも分かりやすいルッキズム(外見至上主義)だ。老人は、若者の「ロン毛に逆さ帽子」という、多少ヤンチャそうな見た目だけを見て、カモを見つけたように「どきなさい」と威嚇したのではないか。仮にその座席に座っていたのが、プロレスラーのような屈強な「キン肉マン」だったら、あるいは言葉の通じない強面の外国人だったら、あの老人は同じように声を荒らげただろうか。おそらく、目を逸らして通り過ぎていたに違いない。相手を見て態度を変えるその卑屈さが、透けて見えて仕方がないのだ。
2つ目は、日頃から「正義」を振りかざして他人にマウントを取ることに、歪んだ快感を得ているパターンだ。おそらく定年を迎え、波風立たぬ退屈な毎日を過ごす中で、家庭や社会で自分の存在感を示す場所を失ってしまったのだろう。日常のちょっとした苛立ちを吐き出したくなり、「ルール」や「マナー」という言葉を匂わせ、若者を従わせる支配欲を満たしている可能性は十分にあり得る。
浅はかな合理性と一手先の自己防衛
とはいえ、絡まれている若者の側はどうだろうか。「空いているのだから、乗車位置から一番近い席に座る」という主張は、一見すると合理的で理に叶っているように思える。しかし、その思考はあまりにも短絡的だと言わざるを得ない。
今回の場合、車内は全く混んでいないのだ。ほんの少し足を動かして、一般席へ移動する手間を惜しまなければ、そもそもこんな面倒な現象は発生しなかった。「ここに座っていれば、ルールに盲目な老人に目を付けられるかもしれない」という、一手先のリスクにすら思考が回っていない。自分中心の世界だけで動いているから、老人の格好の餌食になってしまうのだ。
もし私がこの若者の立場なら、あんな戦隊モノに出てくるような「正義の仮面」を被った老人に、貴重な一日のエネルギーを吸い取られるくらいなら、最初から一般席まで無言で歩く。それは社会のマナーに従うという高尚な理由からではない。単純に、「めんどくさい人種を自分の世界に一歩たりとも入れたくない」というための、冷徹な自己防衛だ。
自分の行動が周囲にどんな摩擦を生むか、その一手先を想像できない若者の短絡さ。そして、他人の隙を揚げ足取りのようにめざとく見つけあたかも殴りかかる老人の陰湿さ。15時の眠たい車内の中で繰り広げられたその光景は、ただただ車内の空気を悪くしただけで、何の生産性もない不毛な時間が過ぎていっただけだった。


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