ある日の帰り道の出来事だ。 その日は1日中仕事に追われ、すっかり疲れ果てていた。肩は重く、半分やつれた顔で、ただただ惰性で帰路のコンクリートを踏み締めていた夕方の時間帯だった。
向こうから、一匹のかわいい犬を散歩させている人が歩いてくるのが見えた。 過去に犬を飼っていた経験がある私は、その姿を見ただけで少し心が緩む。「かわいいね、いいね、お散歩してもらって」と心の中で思いながら、トコトコと歩く犬を見つめた。すれ違いざまに、飼い主の女性とほんの少しだけ目線を交わし、軽く会釈をして通り過ぎようとする。
が、その瞬間、私の視界に異様な光景が飛び込んできた。思わず首を捻って二度見したくなるような違和感。 彼女の腕には、高級ブランドのロゴが刻まれたバッグが掲げられていたのだ。
トイプードルの愛らしい毛並みと、泥臭いアスファルト。そして、そこに全く不釣り合いな数十万はするであろうブランドバッグ。その光景は、庶民である私の日常とはあまりにもかけ離れていて、脳が状況を処理するまでに少しばかりの時間が必要だった。
庶民の「わざわざ」と、貴族の「いちいち」
庶民側の物差しでこの光景を測るなら、まず間違いなくこうなる。
「わざわざ犬の散歩に行くくらいで、なんであんな高いバッグを持って出歩くのだろうか」と。
犬の散歩というのは、本来もっと泥臭い営みのはずだ。尿を薄めるための水が入ったペットボトルを持ち歩き、時にはしゃがんで糞の後始末をしなければならない。当然、カバンが汚れる可能性も、犬の爪で傷がつくリスクも常につきまとう。
しかし、ひとしきり頭の中でツッコミを入れた後で、私はハッと気づく。貴族の人間は、そもそも「犬の散歩だからこのバッグ」なんて、いちいち小さなことを気にしてすらいないのだろう。
「玄関の棚にちょうどいいサイズのカバンがあったから、スマホを入れて持ってきただけ」
あるいは、
「犬の散歩用バッグとして、最初から使い捨てるつもりで買った」
といったところか。それが彼らにとって、何の努力も必要としない、文字通りの「普通の日常」なのだ。
この両者の前提が、根本から狂っている。庶民が「わざわざ(笑)」と失笑している反面、貴族は「いちいち」そんな視線にすら気づいていない。マダムの優雅な背中を見送りながら、住む世界が違うというのはこういうことか、と妙に腹落ちしてしまった。
機能性に敗北したカバン
だが、そこからさらに庶民側の冷めた目で分析を進めていくと、どうにも腑に落ちない箇所が見えてくる。果たしてその高級なブランドバッグは、散歩という場において、本当の意味で「使い勝手」がいいのだろうか。
私たち庶民が持つ散歩バッグは、おそらく数千円の安価なものだ。しかし、そこには汚れに強い撥水加工があり、両手を空けるためのショルダーベルトがあり、ポケットの配置まで計算し尽くされている。機能性を最大限に求めた、いわば戦友のような道具だ。
それに対して、彼女の持つブランドバッグはどうだろう。収納力は乏しく、斜め掛けもできず、犬が急に走り出したら間違いなく邪魔になる。あれはカバンを「使っている」のではなく、高価な革を傷つけないように、汚さないようにと、人間の方がカバンに「使わされている」のではないだろうか。そんな不自由な歪さを感じてしまう。
さらに言えば、最近はニュースを開けば一昔前よりも強盗やひったくりのリスクが高まっているように思える。薄暗くなり始めた住宅街で、わざわざ「ここに大金がありますよ」と言わんばかりの行為は、自ら防犯リスクを跳ね上げにいく自殺行為に近いのではないか、とすら思うのだ。
実用性も、身の安全すらも、どこか置き去りにされている。
1円の物価高に怯え、いかに効率よく、安全に生きるかという防犯対策に躍起になっている私のちっぽけな物差しでは、その執着の正体はどうひっくり返しても測れそうにない。やっぱり、私にはどうしても理解し難い景色のままである。


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