脳内で行われる、無意識の裁判
街角に怒号が響く。
反射的に目を向けた先にいたのは、ビシッと決めたスーツ姿の男と、ラフな格好に長い髪を遊ばせた男だった。その光景が目に焼き付いた瞬間、私の脳内では勝手に「裁判」が開廷していた。
「まあ、スーツの男性の方が言い分に理があるんだろうな」
――そう直感した自分に気づいた瞬間、言葉に表せない自分に対する不快感を覚えた。
現場の状況も、事の経緯も、彼らが何を叫んでいるのかすら、まだ聞き取れていない。それなのに私は、彼らが身にまとっている「布の形」と「髪の長さ」という、あまりに外見的な情報だけで、どちらが正義でどちらが悪かを勝手に仕分けていたのだ。
見た目のハラスメント、スーツは必ずしも正義ではない
私たちは、自分たちが思っている以上に「見た目」という暴力に加担して生きている。スーツを着ていれば「理性的な大人」、ロン毛なら「奔放でルーズな奴」。そんな安っぽいラベルを相手に貼り付けて、中身も見ずに正義の味方ごっこをしている。この思考停止こそが、見た目のハラスメントの正体だ。
もし二人が全く同じ汚い言葉で罵り合っていたとしても、スーツを着ているだけで「何か事情があるのでは?」と擁護したくなる心理。そこには、明確な差別意識が潜んでいる。
「きちんとした格好をしていれば、自分の主張は正しく聞こえる」
もし、スーツを着ている側の男性が、無意識にでもそう高を括っていたとしたら。それは外見を盾にして相手を威圧する「見た目ハラスメント(ルッキズム)」の加害者そのものだろう。言葉の内容以上に、その「装いによる圧力」が相手を追い詰めている可能性を、私たちは無視しすぎている。
醜さを露呈する瓜二つの人
二人がいよいよ声を荒らげ、周囲の空気がピリついた時、そこにはもう「エリート」も「自由人」もいなかった。
ただ、怒りに任せて顔を真っ赤にし、言葉にならない咆哮で相手を屈服させようと必死な、どこにでもいる「醜い人間」が二人並んでいただけだ。
普段なら、彼らはきっと違う世界で生きているはずだ。
スーツの彼は規律を重んじる組織の中、ロン毛の彼は自分のこだわりを愛して生活しているのかもしれない。しかし、「心の余裕」が枯渇したとき、そんな後付けの「外見という武装」は一瞬で無効化される。普段どれだけ「まともな大人」を演じていても、怒りに飲まれた瞬間にスーツというメッキは剥がれ落ち、そこにはただの、制御を失った生身の人間が立ち尽くしているだけだ。
その時、二人の姿は驚くほど「瓜二つ」に見えた。どちらが立派かなどという議論は、その無様な光景の前では何の意味も持たないという話だ。
私たちを定義するのは「立場」ではなく「余裕」だ
結局、私たちを人間たらしめているのは、どんな服を纏っているかではない。
「今、心にどれだけの余裕があるか」という、目に見えない一点に集約されるのではないか。 「スーツ姿だから正しい」という断定は、真実を見る目を曇らせるだけでなく、自分自身をも傲慢にする。恐ろしいのは、自分が「スーツを着る側の人間」になった時、その慢心が「正論を吐いている」という錯覚を生み、無意識に誰かを見下し、踏みにじってしまうことだ。
もし、目の前の誰かを見た目で判断しそうになったら。あるいは、自分の正しさを外見という武装で補強したくなったなら。それは性格の良し悪し以前に、単に自分の中の「余裕が足りないサイン」なのだろう。器が空っぽで脆いからこそ、安易なレッテルにすがり、他人を型にはめることでしか自分を保てなくなっているのだ。
まずは自分の中に「余裕」を作る。作れなければ私たちは簡単に、見た目という安直な物差しで他人を裁くハラスメント加害者へと成り下がる。
立派な外見を整える暇があるなら、まずは自分の心の中に、フラットに人を見つめるための「花園」を作るのはどうだろうか。あの日、街角で見た二人の「瓜二つの醜さ」。そしてそれを色眼鏡で見てしまった自分自身の浅ましさを、私はいつまでも忘れないでおこうと思う。


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